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乃至十念せん [はじめての『尊号真像銘文』(その9)]

(9)乃至十念せん

 これまでのところで、第18願の願文「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く)」の「欲生我国」までが終わり、これから「乃至十念」より後の解説が始まります。まずは「乃至十念」について、「如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり」と言います。
 「心を至し信楽して」も「わが国に生まれんと欲ひて」も、われらが信楽し、われらが欲生するより前に、如来から「信楽すべし」と命じられ、如来から「安楽浄土へむまれむとおもへ」と命じられているのでした。信楽も欲生も如来の招喚の勅命(「帰っておいで」の呼び声)であるということ、ここにポイントがありました。「乃至十念せん」についてはとくに言及されることはありませんが、これまでの流れからしまして、これもわれらが乃至十念するには違いないとしても、その前に如来から「乃至十念せよ」と命じられていることは明らかです。南無阿弥陀仏はわれらが称えるより前に如来から聞こえてくるということ、われらはそれにこだまのように応答するだけだということです。
 さて「乃至十念せん」の「乃至」について、それは称名の「遍数のさだまりなきほどをあらはし」、また「時節をさだめざることを衆生にしらせむ」としているのだと言われます。このなかで称名の回数のことよりも、その時節について「さだめざること」とされていることに注目すべきです。それは次の「如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず」という文につながります。この文を裏返して読んでみますと、一般には尋常の称名よりも臨終の称名に目が向けられる傾向があるが、親鸞はそれに対して、称念の「時節をさだめ」ることはできず、むしろ尋常の称名を大事にするべきであると述べていると思われます。

タグ:親鸞を読む
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