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若不生者不取正覚 [はじめての『尊号真像銘文』(その13)]

(13)若不生者不取正覚

 さて「乃至十念」のあとが「若不生者不取正覚」ですが、これについては「このこころは、すなわち至心信楽をえたるひとわが浄土にもしむまれずば仏にならじとちかひたまへる御のり也」と言うだけで、それ以上なにも語ってくれません。しかし「若不生者不取正覚」まできてはじめて第18願の精神が完結するのではないでしょうか。「世界中の衆生が至心に信楽し、わが国に生まれんと思い、たった十回でも南無阿弥陀仏と称えるようにしたい」と願ったあとに、「そのようなものをみなわが国に往生させましょう。そうでなければわたしも仏となることはありません」と誓うことで第18願がきりっと締まるのであり、これがなければ画竜点睛を欠きます。
 これまでのポイントをあらためて確認しておきますと、至心信楽も欲生我国も乃至十念もみな本願招喚の勅命であるということでした。つまり、われらが至心信楽し欲生我国し乃至十念するには違いありませんが、それより前にそうするように如来からはからわれているということです。そしてその上でそのようなものをみなわが国に迎えようというのが「若不生者不取正覚」です。「みんなが救われないならば自分の救いもない」という大乗仏教のエッセンスがここにはっきり現れています。宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(「農民芸術概論序説」)と言った、あの精神です。
 いま大乗仏教のエッセンスと言いましたが、考えてみますと、これこそ釈迦の説いた縁起の思想そのものです。あらゆるものが「これあるに縁りてかれあり」というように繋がりあっているのですから、自分だけが救われることはありません。繋がりあったみんなが救われて、はじめて自分の救いもあるわけです。このように見ますと、「みんなが救われなければ自分の救いもない」という大乗の菩薩思想は釈迦の縁起の思想から翼をえて大きく羽ばたいたものと言うことができます。

タグ:親鸞を読む
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