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マインド・コントロール [はじめての『尊号真像銘文』(その14)]

(14)マインド・コントロール

 『マインド・コントロール』という本を読んだとき、そこに紹介されている数々の恐ろしい実例に驚きながら、ふと思ったことがあります。釈迦のいう「我執」こそ究極のマインド・コントロールではないかということです。『スッタニパータ』の印象的な一節にこうあります、「わがものであると執着して、動揺している人々を見よ。ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、“わがもの”という思いを離れて行なうべきである。━もろもろの生存に対して執着することなしに」と。
 「これはわがものである」と執着することは一種のマインド・コントロールではないでしょうか。「野の百合、空の鳥」(「マタイ伝」)を見ていますと、かれらに「これはわがものである」という執着はなさそうです。どうもわれらだけが、あれもこれも「わがもの」であると思い込み、「田あれば田を憂い、宅あれば宅を憂い、牛馬六畜(ごめろくちく)・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物(じゅうもつ、家財のこと)、またともにこれを憂」(『無量寿経』三毒段)えているのではないでしょうか。何の因果か、われらは自分自身に「これはわがものである」というマインド・コントロールをかけていると思われます。
 釈迦はそれがマインド・コントロールであると気づいたのではないでしょうか。無我や縁起のさとりというのは、そのマインド・コントロールからの「目覚め」ということではないか。世界のすべては「これあるに縁りてかれあり」というように縁起の繋がりのなかにあり、何ひとつとしてそこから切り離されて自立したものはないのに、どういうわけか「われ」という実体を仮構し、「これはわがものである」と執着している。これはみずからがみずからをマインド・コントロールしているのだ、と。
 そのように気づくだけで、もうマインド・コントロールから覚めています。マインド・コントロールのおもしろいところは、これはマインド・コントロールではないと思っているから、マインド・コントロールにかかっているのであり(騙されていると思わせることなく騙すのがマインド・コントロールです)、これはマインド・コントロールであると気づいたときには、もうマインド・コントロールから抜けているということです。

タグ:親鸞を読む
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