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唯除五逆誹謗正法 [はじめての『尊号真像銘文』(その15)]

(15)唯除五逆誹謗正法

 マインド・コントロールについてもうひと言。「これはわがものである」と執着するのはマインド・コントロールだと気づいたとしても、「これはわがものである」と執着しなくなるわけではありません。性懲りもなく「これはわがものである」と執着しているのですが、でも同時に、これはマインド・コントロールであると気づいています。で、どうなるかといいますと、「わがもの」への執着が次第におさまっていきます。これが「自浄其意(みずからそのこころを浄める)」ではないでしょうか。
 もとに戻りまして、「みんなが救われないならば自分の救いもない」というのが「若不生者不取正覚」でした。ぼくらは普通「自分が救われてはじめて他の人の救いを考えることができる」と思います。ところがあるときふと、そんなふうに思うのは救いを「わがもの」としていることではないかと気づく。「これはわがものである」というマインド・コントロールにかかっているのではないかと気づくのです。そう気づいたときにはもうマインド・コントロールから覚めていて、そのときです、「みんなが救われないならば自分の救いもない」という本願がすでにこころに届いているのに気づくのです。
 本願がこころに届いていることに気づくということは、それが自分のほんとうの願いであることに気づくことに他なりません。
 さて「若不生者不取正覚」まできまして、これで終わりかと思いきや、第18願には「但し書き」がついています、「唯除五逆誹謗正法」と。至心信楽のものをみんな救おう、そうでなければ自分も仏にならないと誓ったはずなのに、「ただ五逆と誹謗正法を除く」とくるのです。「みんなが救われないならば自分の救いもない」はずなのに、その「みんな」から五逆と謗法だけは除かれるというのです。これではすべてがぶち壊しにならないでしょうか。たしかに五逆と謗法はとんでもない極悪非道といわなければならず、そんな罪を犯す人は多くはないでしょう。でも、たった一人でも例外をつくってしまうと「若不生者不取正覚」はガラガラと音を立てて崩れてしまうのではないか。

タグ:親鸞を読む
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