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みなもれず往生すべし [はじめての『尊号真像銘文』(その16)]

(16)みなもれず往生すべし

 この疑問に親鸞はどう答えているかといいますと、「五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせむと也。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり」と言うのです。これは善導の解釈を踏まえていまして、善導は『観経疏』において、どうして「唯除五逆誹謗正法」などと付け加えられているかというと、この二つの罪はとても重いものであることを示して「抑止(おくし)」しているのだと言います。
 「五逆や謗法などという重罪を犯してはいけませんよ」と言っているのであって、「こんな重罪を犯したものは往生できません」と言っているのではないと解釈するのです。親鸞も、たとえ五逆や謗法の罪を犯したとしても往生できないことはありません、本願に遇うことができれば「みなもれず往生すべし」と言っています。ただ、これらの罪はとてつもなく重いものだということを「しらせむ」として、わざわざこう言っているのだと理解するのです。
 もう一度マインド・コントロールにもどりますと、本願に遇うということはマインド・コントロールから覚めるということです。それまでは深いマインド・コントロールの中にあって、「これはわがものである」と考えるのは当然であると思っています。そこから、ものを貪るという貪欲、ものごとがうまくいかないと怒るという瞋恚、そうした迷いを迷いと思わない愚痴が生まれてきます。五逆や謗法というのはそれらが行きついたもっとも極端なかたちと言えるでしょう。
 さてしかし、マインド・コントロールの中にあるということは、自分ではそのことに気づいていないということです。煩悩を煩悩とは思っていないのです。五逆・謗法というのも、それを五逆・謗法と気づいてからの命名であり、それまでは五逆とも謗法とも思っていません。そこで、父や母を殺したり、仏法を謗るなどということはとんでもなく重い罪であることに気づかせようとして本願の最後に但し書きがつけられているのだというのです。
 たとえ五逆・謗法の罪を犯しても、「あゝ、これは五逆・謗法の罪だ」と気づいたとき、もうマインド・コントロールは解け、すでに本願の光の中にいるのです。

タグ:親鸞を読む
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