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目覚め [はじめての『尊号真像銘文』(その17)]

(17)目覚め

 さてしかしここに深刻な疑問が生まれてきます。「これはわがものである」と執着することがマインド・コントロールだとしますと(それがまた「無明」ということに他なりません)、そこからどのようにして覚めることができるのでしょうか。これはマインド・コントロールだと気づくことが、それから覚めることに他なりませんが、マインド・コントロールにかかっている人が、これはマインド・コントロールだとどのようにして気づくことができるのでしょう。
 夢の中にある人は自分で「これは夢の中の出来事だ」と気づくことはできません。その夢の世界が唯一の真実であると思い、その中を必死に生きています。それが夢であると分かるのは夢から覚めたあとです。ふと目覚めて「あゝ、夢を見ていたのだ」と思う。同じように、マインド・コントロールを受けている人は「これはマインド・コントロールだ」と気づくことはできません。マインド・コントロールから覚めてはじめて、「あゝ、マインド・コントロールの中にあったのだ」と思うのです。
 マインド・コントロールにある人はそれがマインド・コントロールだと気づくことはできず、それから覚めてはじめて気づくことができるということ。そしてマインド―コントロールから覚めるのも、自分で覚めようとして覚められるものではありません。覚めようとするには、これはマインド・コントロールだと自覚しなければならないからです。としますと、いったい全体どういうことなのか。どうもこうもありません、何か外から力がはたらいてマインド・コントロールから覚めさせてもらうしかないということです。
 ぼくが悪夢でうなされているとき、横にいる妻が見かねて揺り起こしてくれます。こうしてぼくの夢は中断され、「やれやれ、夢だった」と安心できるのです。同じように、ぼくらがマインド・コントロールに苦しんでいるとき、何か不思議な力がぼくらをマインド・コントロールから揺り起こしてくれ、「あゝ、マインド・コントロールだったのか」と安心することができるのです。他力というのはそのことを言います。それを親鸞は本願招喚の勅命とよんでいるのです。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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