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みなもれずかの浄土に致る [はじめての『尊号真像銘文』(その20)]

(3)みなもれずかの浄土に致る

 本願招喚の勅命が聞こえるというのは、これまでそのなかにいた無明の長夜にさっと光がさしこみ、その光によって「あゝ、これまでは無明の長夜にいたのか」と気づかされるということです。それはこれまでかかっていたマインド・コントロールに気づくことに他なりません。そして「これまではずっとマインド・コントロールの中にいたのか」と気づくことは、もうそれから(なかば)解き放たれているということです。マインド・コントロールに気づいたとき、すでに本願の中にいるのです。これが「聞といふは、如来のちかひの御なを信ずとまふす也」という意味です。
 つづく「欲往生」についてはこう言われます、「欲往生といふは、安楽浄刹にむまれむとおもへとなり」と。先回の第18願のところでも、「欲生我国」について「他力の至心信楽のこころをもて安楽浄土にむまれむとおもへと也」と述べられていました。われらが往生したいと思うより前に、如来から往生したいと思えと命じられているということです。われらが往生を願うことができるのは、それに先立って如来から「帰っておいで」と往生が願われているからです。願われているから願うことができる。
 「聞名欲往生」につづいて「皆悉到彼国(みなことごとくかの国に到りて)」という文言がきます。親鸞はこれを「御ちかひのみなを信じてむまれむとおもふ人は、みなもれずかの浄土にいたるとまふす御こと也」と解説してくれます。さてしかし、どうして「御ちかひのみなを信じてむまれむとおもふ人」は、「みなもれずかの浄土にいたる」と言えるのか。往生したいと願うだけで、かならず往生できるなどとどうして言うことができるのでしょう。願うだけで実現されるなんてことがあるものでしょうか。
 法然が善導『観経疏』の「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業となづく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」という一節を読んで目から鱗が落ちたというエピソードが思い出されます。法然の中に薄皮一枚の疑いがあったに違いありません、どうして念仏するだけで往生できるのかと。その彼に「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」という一句が目に飛び込んできた。そうか、仏がそれを願ってくださっているのだから、往生できるのは当然ではないかと。

タグ:親鸞を読む
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