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衆生のはからひにあらず [はじめての『尊号真像銘文』(その21)]

(4)衆生のはからひにあらず

 もしわれらが往生を願うだけでしたら、願ったからと言ってそれが実現される保証は何もありません。普通、願いというものは、それにふさわしい努力を積み重ねてようやく叶うものでしょう。いや、どんなに努力しても報われないことはしばしばあります。ですから願うだけで実現されるなどということはそのまま頷けることではありません。法然も「ただ念仏するだけで往生できる」という教えの前にじっと佇み思案を重ねていたのではないでしょうか。
 そんな彼に「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」ということばからひとつの気づきがやってきたに違いありません。われらが念仏し往生を願うには違いないが、それは如来がわれらの往生を願ってくださっているからだという気づきです。われらが願うより前に如来が願ってくださっている。とすれば願うだけで往生できるのは当然ではないかと。このとき法然に「帰っておいで」の声が届いていたのです。かくして「御ちかひのみなを信じてむまれむとおもふ人は、みなもれずかの浄土にいたる」と言うことができるのです。
 最後に「自致不退転(おのづから不退転に致る)」の一句です。親鸞はこれについてかなり丁寧に注釈してくれていますが、まず「自(おのづから)」の意味について「衆生のはからひにあらず、しからしめて不退のくらゐにいたらしむとなり。自然といふことば也」と言います。この一文から頭に浮ぶのは顕智が親鸞から聞書きしたといわれるあの「自然法爾章(じねんほうにしょう)」です。
 「自然といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに。法爾といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべしなり。自然といふは、もとよりしからしむるということばなり」。

タグ:親鸞を読む
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