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往生の旅は修行の旅 [はじめての『尊号真像銘文』(その23)]

(6)往生の旅は修行の旅

 親鸞はこの不退転をさらに正定聚と言い換えます。このことばのもとは『無量寿経』の第11願に「(正)定聚に住し、必ず滅度に至らずば正覚をとらじ」とあり、またその成就文に「かの国に生まるるものは、みなことごとく正定の聚に住す」とあって、「仏になることが定まっている仲間」という意味です。で、往覲偈(おうごんげ)には「みな悉くかの国に到りて、おのづから不退転に致る」とありますから、かの国に到る、つまり往生することと、不退転に致る、つまり正定聚となることはひとつであることが分かります。往生するというのはかならず仏となることが定まった境地を生きるということです。
 さて「如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退のくらゐにいたらしむる」のですから、本願名号に遇うことができたそのときに正定聚不退の位につき、仏となるべく往生の旅に立つことになります。正定聚不退の位についたというのは、無明長夜が明けたということであり、我執(「これはわがものである」という囚われ)のマインド・コントロールから目覚めたということです。それはこれまで述べてきましたように夢から目覚めることに譬えることができますが、ただ大きく違うのは、夢から覚めますと、もう夢の世界からきっぱりオサラバして現実の世界を生きることになりますが、我執のマインド・コントロールから覚めても、我執の世界からオサラバするわけにはいかないということです。
 正定聚不退の境地は、かならず仏となることが定まっていても、いまだ仏ではありませんから我執は残っています。これまでと違って我執を「あゝ、これは我執だ」と気づいていますが、でも我執からすっきり離れることはできません。この境地は、「これは真実ではない」と思いながら、その非真実を生きるという何ともアンビバレントな状況と言わなければなりません。一方では本願招喚の勅命に遇えたという喜びがあると同時に、他方で依然として我執を生きているという悲しみがあります。喜びと悲しみが背中合わせにくっついているのです。
 「あゝ、これは我執だ」という気づきは慙愧になり、そしてそこから「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(七仏通戒偈)へとつながっていきます。往生という旅は「自浄其意(自らその意‐こころ‐を浄める)」の旅です。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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