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本文4 [はじめての『尊号真像銘文』(その24)]

         第3回 横超はすなわち他力真宗の本意なり

(1)本文4

 又言「必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉 昇道無窮極 易往而無人 其国不逆違 自然之所牽」
 
 「必得超絶去往生安養国(しつとくちょうぜつこおうじょうあんにょうこく)」といふは、必はかならずといふ。かならずといふは、定まりぬといふこころなり。また自然といふこころなり。得はえたりといふ。超はこえてといふ。絶はたちすてはなるといふ。去はすつといふ、ゆくといふ、さるといふなり。娑婆世界をたちすてて、流転生死をこえはなれて、ゆきさるといふなり。安養浄土に往生をうべしとなり。安養といふは、弥陀をほめたてまつるみこととみえたり。すなわち安楽浄土なり。「横截五悪趣悪趣自然閉(おうぜつごあくしゅあくしゅじねんぺい)」といふは、横はよこさまといふ。よこさまといふは、如来の願力を信ずるゆゑに、行者のはからひにあらず。五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横といふ。他力とまふすなり。これを横超といふなり。横は竪(しゅ)に対することばなり。超は迂(う)に対することばなり。竪はたたさま、迂はめぐるとなり。竪と迂とは自力聖道のこころなり。横超はすなわち他力真宗の本意なり。截といふは、きるといふ。五悪趣のきづなをよこさまにきるなり。(以下、本文5)

 またのたまはく、「かならず超絶して去(す)つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截(き)り、悪趣自然に閉じん。道に昇るに窮極(ぐごく)なし。往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」。
 
 「必得超絶去往生安養国」と言いますのは、必は「かならず」ということです。かならずと言うのは、定まるということ、あるいは自然ということです。得は「得た」ということ、超は「こえて」ということ、絶は「断ち切って捨て、離れる」ということ、去は「捨てる」ということ、「往く」あるいは「去る」ということです。娑婆世界を断ち切って捨て、流転生死の世界を超え離れて、去り往くということです。安養浄土に往生するということです。安養と言いますのは、弥陀をほめて言うことばで、安楽浄土のことです。「横截五悪趣悪趣自然閉」と言いますのは、横は「よこさまに」ということです。「よこさまに」と言いますのは、如来の願力を信じるのですから、行者のはからいではないということです。天、人間、餓鬼、畜生、地獄の迷いの世界を自然に断ち切り、胎生、卵生、湿生、化生の四つの生を離れることを「横」と言うのです。それを他力と言うのです。また横超とも言います。横は竪に対することばで、超は迂に対することばです。竪は「たて」ということ、迂は「めぐる」ということです。竪と迂とは自力聖道のこころです。それに対して、横超は他力の真実の教えの本意です。截とは「きる」ということ、五つの迷いの世界の絆をよこさまにきることです。

タグ:親鸞を読む
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