SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その26) ブログトップ

娑婆と浄土 [はじめての『尊号真像銘文』(その26)]

(3)娑婆と浄土

 では大経的往生において、娑婆世界と安養浄土はどのような関係にあると言えるでしょう。もはや「こちらに娑婆、向こうに浄土」という二世界説は無効となりますと、残るのは「こちらからみれば娑婆、しかしひっくり返せば浄土」と考えるしかありません。静岡側から見る富士山と山梨側から見る富士山では、同じ富士山でもその見え方が違います。そのように、われらの世界はただ一つですが、我執というマインド・コントロールにおいては娑婆世界でしかなくても、そのマインド・コントロールから覚めるとそこは浄土です。
 世界そのものは一つで変わりませんが、その「見え姿」が変わるということです。
 さてしかし、すぐ前のところで述べましたように、我執というマインド・コントロールは、それから覚めたとしても、我執からすっきりオサラバというわけにはいかず、「あゝ、これは我執だ」と気づきながら、依然として我執の中にいます。夢から覚めたときは、もうすっかり夢の世界から離脱していますが、我執という夢は「これは我執だ」と気づいても、まだ我執の中です。「これは娑婆世界だ」と気づくことは、一方では「娑婆世界をたちすてて、流転生死をこえはなれて、ゆきさる」ことですが、同時に、依然として娑婆世界の中にいるのです。
 「娑婆世界をたちすてて、流転生死をこえはなれて、ゆきさる」というのは、これまでは世界はこのようであり、このようでしかないと思っていたが、それはそう思い込んでいただけで、まったく別ようの「見え姿」があると気づくことであり、これまでの刷り込み(マインド・コントロール)から解放されるということです。「これは娑婆世界だ」と気づくということは、娑婆世界とは別ようの姿があると気づいているのです。「これは闇だ」と気づくとき、すでに光に気づいています。光の気づきがないところに闇の気づきもなく、そこは闇でも光でもない混沌と言うしかありません。
 娑婆世界とは別ようの姿を安養浄土と呼ぶのですが、さてしかしその安養浄土とはどういう姿をしているのかを言おうとしても、「それはかくかくしかじかの姿である」と肯定的に言うことは出来ません。浄土経典にはそういう記述がいやというほどありますが、よく読むと分かりますように、あれはただ娑婆世界のありようを否定しているだけです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その26) ブログトップ