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横さまに [はじめての『尊号真像銘文』(その28)]

(5)横さまに

 さて「往生安養国(安養国に往生して)」につづいて「横截五悪趣(よこさまに五悪趣を截り)」です。
 五悪趣とは地獄・餓鬼・畜生・人間・天の五つの世界で、天も含めて悪趣、すなわち悪い世界、娑婆(「サーハー」つまり「苦しみを忍ぶところ」)です。安養国に往生するということは、その娑婆世界を横さまに断ち切ることだというのです。親鸞はこの「横さまに」ということばを非常に重く受け止め、さまざまなところでその意味するところについて説いていますが、ここでは「よこさまといふは、如来の願力を信ずるゆへに、行者のはからひにあらず。五悪趣を自然にたちすて、四生をはなるるを横といふ。他力とまふす也」と述べています。
 「横さま」というのは、弥陀の本願力によるのであって、行者のはからいによるのではないということ、したがってそれは自然(おのづからしからしむ)ということであり、要するに他力ということです。「横さま」と対立するのは「たた(竪)さま」で、これは自力を意味します。「たたさま」は自分の足で一歩一歩目標に向かって地道に進んでいくというイメージであるのに対して、「横さま」は知らないうちに横っ飛びに超えてしまっているというイメージです。それを親鸞は「迂(めぐる)」と「超(こえる)」のコントラストで表しています。
 「横さま」をいちばん如実に示すのが目覚めの経験です。それは寝ている人が目覚めようとはからってのことではなく、何か分からない力がはたらいて自然に(おのづから)目覚めます。もう一つ「横さま」をあらわすものとして、すっかり忘れ果てていたことをふと思い出す経験を上げることができます。これも思い出そうとはからって思い出すのではなく(思い出そうとするのは、忘れていることは覚えているということですが、忘れていること自体を忘れているときは、思い出そうともしません)、気がついたときはもう思い出しているのです。これが「横さま」ということ、他力ということです。
 あるときふと目が覚める思いをすることがあります、「あゝ、これまでは我執のマインド・コントロールにかかっていたのか」と。そのとき、もうすっかり忘れ果てていたもっとも古い記憶がよみがえっています。弥陀の本願の記憶です。

タグ:親鸞を読む
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