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点と線 [はじめての『尊号真像銘文』(その30)]

(7)点と線

 これまでのところで「かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉じん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり)」の「横に五悪趣を截り」までが終わり、ここから後半の一句一句を解説してくれます。
 まず「悪趣自然に閉じん」について「願力に帰命すれば五道生死をとづるゆゑに自然閉といふ」と言います。本願招喚の勅命に遇うことができると、五道(五悪趣と同じ)がおのづから閉じると言うのです。先には「截る」とあり、ここでは「閉じる」と言いますが、これらの言い回しから、娑婆世界からきっぱり離れて、空間的にまったく別の世界へ赴くと受け取ることのないよう気をつけなければなりません。そのように受け取ってしまいますと、またもや「来迎をたのむ」ことになり、ひたすら「臨終をまつ」のみとなります。
 「五悪趣を截り、悪趣自然に閉じ」るのは本願招喚の勅命に遇ったそのときですから、五悪趣に居ることはそのままで、同時に「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。我執の生死のなかにありながら、同時に浄土のなかにいるという何ともアンビバレントな境遇、これが正定聚不退ということです。前に往生は「点」ではなく「線」であるという話をしましたが、ここでもう一度それを持ち出しますと、本願招喚の勅命に遇うのは「点」です。それは「信楽開発の時剋の極促」(信巻)です。そのとき「五悪趣を截り、悪趣自然に閉じ」るのです。でもそれで人生が終わるわけではありません、むしろそこからほんとうの人生がはじまるのです。それは正定聚不退という「線」です。
 我執のマインド・コントロールから覚めるのは一瞬です。あるときふと「あゝ、これまでずっとマインド・コントロールのなかにあったのか」と気づくのです。でもそれですべてが終わるのではありません、マインド・コントロールから覚めたほんとうの生活がそこからはじまります。

タグ:親鸞を読む
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