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激流を渡る [はじめての『尊号真像銘文』(その31)]

(8)激流を渡る

 仏教に波羅蜜(多)ということばがあります。パーラミタ―の音訳で、激流を超えて安らぎの彼岸に至ることを意味します(到彼岸と言います)。
 もっとも古い経典にもすでにこの激流を渡るという表現はしばしば出てきます、「人はいかにして激流を渡るのであるか?いかにして海を渡るのであるか?いかにして苦しみを超えるのであるか?いかにしてまったく清らかとなるのであるか?」(『スッタニパータ』)などと。中村元氏の解説によりますと、当時のインドではガンジスをはじめとして大河がしばしば氾濫し、辺り一面が大海原のようになったそうです。釈迦はほんとうの海を知らないはずですから、これが彼にとっての海だったのでしょう。そんな大海原、大激流をどのようにして渡るのかと問うているのです。
 さてそのように問う釈迦はどこにいるのでしょう。ぼくらはともすると釈迦はもう彼岸にいて、此岸にいるわれらに問いかけているように思います。もう激流を渡り終えた釈迦が向こうの岸からこちらにいるわれらに問いかけていると(芥川龍之介の『蜘蛛の糸』はそういう構図で書かれています)。でも『スッタニパータ』などを読みますと、釈迦その人が激流のなかをもまれながら、「人はいかにして激流を渡るのであるか?いかにして海を渡るのであるか?いかにして苦しみを超えるのであるか?いかにしてまったく清らかとなるのであるか?」と問い、それにみずから答えを与えていると感じます。彼は決して彼岸に行ってしまった人ではなく、われらと同じように激流のまっただなかにあって、どう乗り越えたらいいかをともに考えつづけた人だと思います。
 まず何より、生きることは激流を渡ることである、というのは一つの重要な気づきです。仏教ではこの激流を渡るというイメージとともに、炎が燃え盛るという言い方もよくされますが、いずれもわれらは我執の嵐に巻き込まれて苦しんでいるという気づきを表しています。そしてそのように気づいているということは、我執の嵐のまっただなかにありながら、同時にすでにそれを乗り越えているということでもあります。我執のマインド・コントロールからもう抜け出ているのです。しかしその一方で、これまでと変わらず我執のなかにありますから、それに足をとられないよう生きていかなければならない。これがマインド・コントロールから覚めてからのほんとうの人生です。

タグ:親鸞を読む
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