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本来あってはならない存在 [はじめての『尊号真像銘文』(その33)]

(10)本来あってはならない存在

 そんなときぼくならどうするか。おそらく奪い返そうとして争うでしょう。それができなくても、腹の中では激しく毒づくに違いありません。でも同時に、どこかから「それは我執ではないか」という声が聞こえてきて、「あゝ、また我執のとりこになっている」と恥ずかしく思っています。「これは我執だ」という気づきがありませんと、怒りはいつまでも燃え続けるでしょうが、「あゝ、また我執のとりこになっている」という慚愧の念は怒りを鎮める功能があります。ところがまた何かをきっかけに「これはわがものだ」と執着し、同じことを繰り返すことになる。こんなふうに我執は鎮まったと思った後からまた燃え上がり、かくしてこの道は無窮極すなわち果てがないということになります。
 ちょっと横にそれます。
 一昨年(2016年)の夏、相模原の知的障害者施設で19人もの障害者が殺されるという事件が起こりました。犯人はその施設の元職員で、重度の知的障害者が生きていることは本人にも周りの人たちにとっても不幸である、という考えにもとづいて起こされた犯罪でした。この事件に衝撃を受けて手に取ったのが『差別されてる自覚はあるか―横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(荒井裕樹著)という本です。サブタイトルにありますように、この本は横田弘という重度脳性まひ者で青い芝の会を牽引した一人の活動家の思想と行動を浮き上がらせようとしています。一気に読んでしまうのがもったいないと思えるほどおもしろい。
 青い芝の会の「行動綱領」を書いたのが横田弘ですが、その第一項にこうあります、「われらは自らがCP者(脳性まひ者)である事を自覚する。われらは、現代社会にあって『本来あってはならない存在』とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且、行動する」と。相模原事件の犯人にとって、重度の知的障害者はまさに「本来あってはならない存在」であったわけですが、横田弘は自分が社会全体からそのような眼差しを向けられていると自覚することがすべての出発点だというのです。その上で第二項に「われらは強烈な自己主張を行う」と言います、「われらは人間として生きたい」と。

タグ:親鸞を読む
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