SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その34) ブログトップ

悪人正機 [はじめての『尊号真像銘文』(その34)]

(11)悪人正機

 この「行動綱領」は「本来あってはならない存在」という眼差しを向けてくる者に対して怒りをもって立ち向かっていくことを宣言します。この怒りは「本来あってはならない存在」という露骨に差別的な眼差しだけでなく、「かわいそうな存在」という愛と慈しみの眼差しへも向けられます。そこにも「人間は本来自分の力で生きていくものだ(それができないあなた方はかわいそう)」という思いがこもっているからです。ここで考えたいのは、障害者に向けられるこうした差別の眼差しに対する怒りについてです。こうした怒りはあってしかるべきであり、むしろ怒らないことが問題ではないかということです(横田弘は著者に対して、どうしてもっと怒らないのかと言っていたそうです)。
 この怒りは我執としての怒りとどう違うのでしょう。
 本の中でいちばんおもしろかったのは「行動綱領」の背後に「悪人正機」があるという件です。自分のことを自分でできるのが善人=健全者であり、他人に世話されないと生きていけないのは悪人=障害者であるというようにみますと、悪人は善人になって(善人になろうと努力して)救われるのではなく、悪人は悪人のままで(悪人であるという自覚のなかで)救われるという指摘です。本ではそこまでしか述べられていませんが(それだけで十分おもしろいのですが)、ぼくとしてはそこからもう一歩踏み込んで考えてみたい。
 善人は悪人に対して「本来あってはならない存在」という差別の眼差しを向けるのですが、実は悪人のなかにも同じ眼差しがあるということです。
 その内なる差別の眼差しは自分自身に向けられることもあり(やはり自分は「本来あってはならない存在」なんだ、と自分を否定する)、またより重い障害者に向けられることもあります(あいつよりはまだましだ、と思う)。「悪人正機」の悪人とは、自分を悪人と気づいている者をいいます。いまの場合は、差別の眼差しは自分に向けられるだけでなく、自分の中にもそれがあることに気づいているということです。としますと、差別の眼差しを向けてくる者に対する怒りは、同時に内なる差別意識をかかえている自分に対する怒りでもあることになります。こうして社会に対する闘いは、自分に対する闘いにもなる。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その34) ブログトップ