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ほんとうの怒り [はじめての『尊号真像銘文』(その35)]

(12)ほんとうの怒り

 ここまできて我執としての怒りとほんとうの怒りの違いが見えてきます。
 我執としての怒りは身も心も怒りのとりことなって、それが我執によることに気づいていません。そして「あゝ、これは我執だ」と気づいたときには、もう我執としての怒りは鎮まりかけているのです。ほんとうの怒りはここからはじまります。その違いをひと言でいいますと、前者はひたすら自分の外に向かっているのに対して、後者は自分自身にも向かっているということです。前者は「本来あってはならない存在」という差別の眼差しに対して闘うだけですが、後者はその眼差しを内に抱える己に対する闘いでもあるのです。己に対する闘いがあってはじめて外に対する闘いに正当性が生まれます。
 我執の怒りが鎮まって、はじめてほんとうの怒りがはじまるということをもう少し考えたいと思います。先ほどの、ようやくありつけた食べ物を奪われたときも、我執の怒りが収まっておしまいではありません。いや、おしまいにしてはいけないでしょう。奪った人に対してその行為の非を咎めなければなりません。ただそのとき、自分の中にある我執を棚上げにして咎めるのでは、ただ怒りをぶつけただけで、相手のこころに届くことはありません。自分の中にも同じ我執があるという自覚において、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」を説くしかありません。
 一般に仏教は自分の殻に閉じこもり、社会の中に渦巻くさまざまな問題に目を向けることがないと言われます。たとえば、いま取り上げている障害者に対する差別の問題に対しても仏教者として発言することはあまりありません。社会の問題に関心を寄せるということは、社会の不条理に怒りの眼を向け、それと闘うということになりますが、怒りや闘いというものは仏教と相いれないとみなされるのが普通です。「諸悪莫作、衆善奉行」も自分に対して言われるのであり、社会の悪に立ち向かうということではないとされます。さてしかしこのような仏教観は正しいのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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