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往き易くして人なし [はじめての『尊号真像銘文』(その37)]

(14)往き易くして人なし

 さて次の「易往而無人(いおうにむにん、往き易くして人なし)」に進みます。
 親鸞はこれについて「易往はゆきやすしと也。本願力に乗ずれば本願の実報土にむまるることうたがひなければ、ゆきやすき也。無人といふは、ひとなしといふ。人なしといふは、真実信心の人はありがたきゆへに実報土にむまるる人まれなりとなり」と解説してくれます。往きやすいのはどうしてかというと、ただ本願力に乗るだけで他に何もいらないからです。ところがどうして人がいないのかというと、その本願力に乗る人がいないから、真実の信心の人がいないからだというのです。
 ただ本願力に乗るだけでいいのに、どうして乗る人がいないのでしょう。俗に「タダほど怖いものはない」と言います。「これはタダです」と言われて、うっかりそのことばに乗ってしまったがために、後でひどい目にあわされるという経験はありふれています。うまい話には裏があり、やはり何ごとも正当な対価を払わなければなりません。ですから「ただ本願力に乗りさえすれば往生できますよ」と言われると、そんなうまい話があるものかと警戒心がはたらくのです。
 ここには不幸なすれ違いがあります。
 「本願力に乗ずる」と言われますと、何か乗り物に乗り込むというようにイメージします。こちらに自分がいて、あちらに乗り物があり、こちらからあちらに乗り込むと。これではしかし自分と本願力とがもともと別にあることになりますが、そういう関係ではありません。われらはもとから本願力のなかにあるのです。もうすでに本願力に乗じているのです。ところがそれに気づいていない。源信が言うように「煩悩まなこをさえてみたてまつらず」です。ところが、あるときふと気づく、「あゝ、もうずっと昔から本願力の中にあったのだ」と。これが「本願力に乗ずる」ということ、真実の信心です。
 「信じる」というのは、何かをつけ加えることではありません、むしろ何かが減じられることです。邪魔していたものが減じられて、そこにもともとあったものが見えてくる、これが「信じる」ということです。

タグ:親鸞を読む
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