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仏の時間 [はじめての『尊号真像銘文』(その42)]

(4)仏の時間

 『首楞厳経』の文で戸惑いますのは、阿弥陀仏の脇士であるはずの勢至菩薩が釈迦の前に進み出て「仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく」とあることです。釈迦仏の脇士といえば普賢菩薩と文殊菩薩で、勢至菩薩と観音菩薩が阿弥陀仏の脇士ですから、どうして勢至菩薩が釈迦仏に「まうしてまうさく」なのかと不思議に思うのです。そして勢至菩薩は、はるかな昔に(往昔の恒河沙劫に)無量光仏(もちろん阿弥陀仏です)という仏がおられたと言います。
 もうひとつ戸惑いを覚えるのが、和讃のことばでは「十二の如来あひつぎて 十二劫をへたまへり 最後の如来をなづけてぞ 超日月光とまうしける」という点です。十二光仏とは、阿弥陀仏には無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏など十二の名があるということであるはずなのに、ここでは十二の如来が一劫に一度ずつ相次いであらわれ、その最後が超日月光仏であると言われます。そしてその超日月光仏が勢至菩薩に「念仏三昧を教へたまふ」と言うのです。
 こうなってきますともう時間の感覚が融通無碍でわれらの理解を絶しています。過去と現在が融合していると言うべきでしょうか。往昔の恒河沙劫の仏である阿弥陀仏が、あるとき超日月光仏として現れては勢至菩薩に念仏三昧を教え、そのことをいま勢至菩薩が釈迦如来に報告しているという。われらの頭はもうこれについていくことができません。けだし永遠と時間の問題はわれらの理性を超越しているということでしょう。それでも何とかして仏の時間とわれらの時間を橋渡しできないものか。
 われらの時間は過去から現在へ(そして未来へと)直線的に流れていきます。そしてその流れは不可逆的です。これはもうどうしてそうなのかと問うべきことではなく、われらはどういうわけかこのような時間のものさしで世界を見るようになっていると言うべきでしょう(これがカントのコペルニクス的時間論です)。ところが仏の時間ときたら、このものさしがまったく役に立ちません。

タグ:親鸞を読む
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