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「永遠」と「いま」 [はじめての『尊号真像銘文』(その43)]

(5)「永遠」と「いま」

 久遠の弥陀があるとき誰かに(ここでは勢至菩薩に)本願を届けるということは、永遠が時間の中にふいっと姿を現すということです。これはもう直線の時間では手に負えません。そこでこんなイメージはどうでしょう。「果てのない暗闇」の中にぽっかり「陽だまり」があります。そこだけ光が当たって「果てのない暗闇」の中に浮き出ているのです。この「陽だまり」が「いま」で、その周辺に広がる「果てのない暗闇」を「永遠」とみることはできないでしょうか。そして「陽だまり」の「いま」に「果てのない暗闇」としての「永遠」がふいっと姿を現していると。
 「永遠」はもちろん「いま」ではありませんが、でも「いま」の中に姿を現すことでしかその存在を示すことはできません。また「いま」はそれだけであるのではなく、「永遠」がそこに姿を現すことではじめて「いま」として存在することができます。「いま」は「永遠」に包まれ、ささえられることで「いま」であることができるということです。曽我量深が「むかしの本願がいまはじまる」と言うのはこのことではないでしょうか。往昔恒河沙劫の本願は「いま」はじまるというかたちでしか存在することができず、逆に「いま」は往昔恒河沙劫の本願がはじまることでしか存在することができないということです。
 「永遠」は「いま」はじまるのです。
 「いま」とは別のどこかに「永遠」があると考えるところからあらゆる錯誤が生まれてきます。「永遠」なるものをどこかに措定して、それについて何かを語ろうとすることがあらゆる誤りのもとです。戦前、「原理日本」という親鸞の他力思想に依拠するという超国家主義の団体がありました(ということを『愛国と信仰の構造』という本から知りました)。三井甲之(こうし)や蓑田胸喜(みのたきょうき)などがその中心でしたが、彼らは「弥陀の本願」を「日本意志」とか「天皇の大御心」に読み替え、そこから「祖国を礼拝する」という極端な国家主義を標榜するのです。ここに「永遠」をどこかに存在するもの(「日本」や「天皇」)として措定するという悪しき典型が見られます。

タグ:親鸞を読む
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