SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その44) ブログトップ

本文8 [はじめての『尊号真像銘文』(その44)]

(6)本文8

 本文7のつづきです。

 「若衆生心憶仏念仏」といふは、もし衆生、心に仏を憶し仏を念ずれば。「現前当来必定見仏去仏不遠不仮方便自得心開」といふは、今生にも仏を見たてまつり、当来(将来)にもかならず仏を見たてまつるべしとなり。仏もとおざからず、方便をもからず、自然に心にさとりを得べしとなり。「如染香人身有香気」といふは、かうばしき気、身にある人のごとく、念仏のこころもてる人に、勢至のこころをかうばしき人にたとえまふすなり。このゆゑに「此則名曰香光荘厳」と申すなり。勢至菩薩の御こころのうちに念仏のこころをもてるを、染香人にたとえまうすなり。かるがゆゑに勢至菩薩のたまはく、「我本因地、以念仏心、入無生忍、今於此界、摂念仏人、帰於浄土」といへり。我本因地といふは、われもと因地にしてといへり。以念仏心といふは、念仏の心をもつてといふ。入無生忍といふは、無生忍に入るとなり。今於此界といふは、いまこの娑婆界にしてといふなり。摂念仏人といふは、念仏の人を摂取してといふ。帰於浄土といふは、念仏の人(を)摂(おさ)め取りて浄土に帰せしむとのたまへるなりと。
 
 「もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば」とは、もし衆生が心に仏を思い、念仏すればということです。「現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便を仮らず、おのづから心開かるることを得ん」とは、今生において仏を拝見することができ、将来も必ず仏を拝見できるということです。仏から遠いこともなく、方便を借りることもなく、自然に心に悟りを得ることができると言うのです。「染香人の身に香気あるがごとし」とは、香ばしい匂いの人がいるように、念仏の心を持つ勢至菩薩を香ばしい人にたとえているのです。そんな訳で「これすなはち名づけて香光荘厳といふ」と言うのです。勢至菩薩が心のうちに念仏を持っているのを、香ばしい人にたとえているのです。かくして勢至菩薩は「われもと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしめむ」と言うのです。我本因地とは、「われもと因地のとき」ということです。以念仏心とは、「念仏の心をもって」ということです。入無生忍とは、無生忍に入るということです。今於此界とは、今この娑婆世界でということです。摂念仏人とは、念仏の人を摂取してということです。帰於浄土とは、念仏の人をおさめとって浄土へ帰らせようとおっしゃっているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その44) ブログトップ