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仏を去ること遠からず [はじめての『尊号真像銘文』(その45)]

(7)仏を去ること遠からず

 『首楞厳経』からの引用文の前段は、勢至菩薩が釈迦如来に向かって超日月光仏から念仏三昧を教えられたと述べるところまででした。ここではそれにつづいて、その念仏三昧のありようについて「もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前・当来にかならずさだめて仏を見たてまつらん。仏を去ること遠からず、方便を仮らず、おのづから心開かるることを得ん」と述べます。念仏三昧にある衆生に仏が姿を現し、おのずから衆生の心が開かれるということです。ここに「現前・当来」とあることに注目したいと思います。仏が衆生に姿を現すのは当来(未来)だけではなく、現前(現在)でもあるということです。
 仏にお会いできるのは臨終の来迎においてと考えるのが普通でしょうが、ここでは念仏三昧のただなかで仏とあいまみえることができると言うのです。般舟三昧(はんじゅざんまい)ということばがあります。諸仏現前三昧と訳され、その三昧において十方の諸仏を目の当たりにすることができるということです。浄土経典に大きく二つの流れがあり、そのひとつは「仏を観る(観仏)」こと、もうひとつは「名号を聞く(聞名)」ことにその中心があります。前者は『般舟三昧経』から『観無量寿経』への流れ、後者は『大阿弥陀経』(『無量寿経』の異訳で、その原型ともいえるもの)の流れです。いま読んでいる『首楞厳経』は前者の観仏の流れの中にあります。
 「仏を見たてまつる」という文言から、仏を実体化することのないように気をつけたいと思います。こちらに自分がいて向こうに仏がおわすという図式では、時間(「いま」)のなかに「永遠」がふいっと姿を現すということをうまく言い当てることができません。そうではなく、ふとこころの覆いが取り払われて(「心開かるる」)、そこにずっとむかしから(「往昔恒河沙劫」)弥陀の本願が存在していたことに「いま」気づくのです。「聞名」ということでいいますと、あるときふと「南無阿弥陀仏(帰っておいで)」の声が聞こえるのです。かくして「むかしの本願がいまはじまる」こととなります。

タグ:親鸞を読む
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