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染香人 [はじめての『尊号真像銘文』(その46)]

(8)染香人

 こころの奥深くに弥陀の本願があることに気づくとき、あるいは「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてきたとき、「如染香人身有香気(染香人の身に香気あるがごとし)」となるとありますが、この染香人ということばが味わい深い。「むかしの本願がいまはじまる」その人には身に香気があるというのです。本願の香りがその人に移ったということです。そしてその香りはまた周りの人たちに移っていきます。本願に遇うというのは香りが移るようなものだということ、ここに思いを潜めてみたい。
 金子大栄氏だったと思いますが、本願念仏というのは、風邪が伝染するように別に伝えようとしなくたって勝手に伝わっていくものだと言われていました。なるほど風邪というのは移りたくないのに、知らないうちに移ってしまい、「やれやれ、風邪が移っちゃったよ」となります。香りも同じで、別に移そうとしなくても、自然に移っていきます。移りたくないと思っても、気がついたら移ってしまうのです。この「自然に移る」というのが他力ということです。
 すぐ前のところで戦前の「原理日本」のことにふれました(5)。「弥陀の本願」を「日本意志」とか「天皇の大御心」に読み替えたということでした。「弥陀の本願」に乗せていただくだけでいいように、小賢しいはからいを捨て「天皇の大御心」にお任せしていればいいのだと説くのです。この読み替えがインチキであるのは、この先ですぐ露見してしまいます。「天皇の大御心」にお任せしていればいいのに、賢しらなはからいをさしはさむ「君側の奸」がいるから「天皇の大御心」が邪魔立てされて、社会にさまざまな問題が生じることになるのだと言い、そうした輩を排除せよと主張するのです。こうして「天皇機関説事件」が起こされることになります。
 この考えでは「天皇の大御心」という他力は「君側の奸」によって遮られるということですが、「弥陀の本願」という他力は人間の小賢しい力などで遮られるようなことはありません。これだけでも「弥陀の本願」を「天皇の大御心」に読み替えることがとんでもない謬見であることがはっきりします。「弥陀の本願」は、香りが止めようがなく周辺に移っていくように、おのずから周りに移っていくのです。

タグ:親鸞を読む
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