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無生忍に入る [はじめての『尊号真像銘文』(その47)]

(9)無生忍に入る

 さて最後の結論部、「われもと因地にして、念仏の心をもつて無生忍に入る。いまこの界において、念仏の人を摂して浄土に帰せしめむ」です。
 因地とは因位(いんに)と同じで、菩薩として修行していたときという意味ですから(それに対するのが果位で、仏となってからをさします)、勢至菩薩が超日月光仏のもとにあったときということになります。そしてそのとき念仏を与えられて無生忍に入ると言う。無生忍とは一般には不生不滅の真理をさとることですが、親鸞はその語の左に「不退の位なり」と訓じています。不退とはかならず仏となるべき身ということで、ここに親鸞独自の理解があります。本願に遇い、念仏を与えられたそのとき、かならず仏となるべき身、正定聚不退となるということです。
 無生忍などと言いますと、われら凡愚には縁のない話かと思ってしまいますが、親鸞はそれを正定聚不退に置き換え、そしてそれは本願を信じたそのときのことだと教えてくれるのです。そういえば親鸞は「横超断四流」ということばを解説するなかで、こう言っていました、「断といふは、往相の一心を発起するがゆへに、生としてまさにうくべき生なし、趣(しゅ、ところ)としてまたいたるべき趣なし」と(「信巻」)。往相の一心とは本願の信心のことで、信心をえたそのときに往生がさだまるのですが、往生とはいっても「生としてまさにうくべき生なし、趣としてまたいたるべき趣なし」であり、これが無生忍です。曇鸞のことばでは「無生の生(むしょうのしょう)」です。
 往生ということばから、ともすると、こことは別のどこかへ往くとイメージし、となるとそれは臨終のときのことかと思い込んでしまうものですが、そうではなく、信心をえたそのときに、ここで無生の生をえるのが往生です。それは仏となることではないのはもちろんですが、でも仏とひとしくなるのです。正定聚不退とは仏にひとしい人のことです。それは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」となるということです。

タグ:親鸞を読む
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