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願力をきく [はじめての『尊号真像銘文』(その50)]

(12)願力をきく

 親鸞は第18願成就文の「即得往生」ということばに浄土思想の核心をみています(親鸞にとって『無量寿経』のハイライトは第18願成就文だと言っていいと思います)。本願の信心をえた「そのときに」往生するということで、龍樹の「即時入必定」や善導の「必得往生」はみなそれを言っているとするのです。
 そして信心のそのときに「往生する」というのは「正定聚不退の位につく」という意味だとします。つまり信心のときに直ちに「仏になる」のではなく、「かならず仏となる身となる」ということです。往生するというのは、かならず仏となる身としての人生がはじまるということです。
 往生という旅は「線」ですが、そのはじまりは「点」です。それを親鸞は「信楽開発の時剋の極促」(「信巻」)と言い、「願力をきくによりて報土の真因決定する時剋の極促」(「行巻」)と言っています。それは、往生がはじまるまでの人生と、はじまってからの人生をくっきりと分ける瞬間ですが、そのときいったい何が起こっているのか。もちろん信心が起っているのですが、もっと具体的にどういうことが起こっているのか。
 印象的なことば、「願力をきく」を手がかりに考えてみましょう。これはしばしば「願力のいわれを聞く」と合理的に解釈されますが、そうではないでしょう。文字通り「願力を聞く」のです。「願力のいわれを聞く」のと「願力を聞く」のとではまったく異なります。前者は本願力とは何であるかを経典や善知識から教えてもらい、それをわれらが納得するということですが、後者は本願力そのものがわれらに聞こえてくるということです。
 真理のことばには二種類あります。真理を伝えることばと真理そのものとしてのことばです。前者においては、ことばと真理は別であり、ことばで表そうが表すまいが、それとは関係なく真理があります。たとえばピタゴラスの定理。直角三角形の斜辺の長さをaとし、他の二辺の長さをそれぞれb、cとすると、a²=b²+c²となる。これは真理を伝えることばであり、ピタゴラスがこのようにことばで表そうが表すまいが、その真理は存在します。
 しかし真理そのものとしてのことばである南無阿弥陀仏においては、このことばと真理はひとつであり、ことばがありませんと真理も存在しません。

タグ:親鸞を読む
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