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指月の譬え(しげつのたとえ) [はじめての『尊号真像銘文』(その51)]

(13)指月の譬え(しげつのたとえ)

 「本願力のいわれを聞く」とき、真理を伝えることばを聞いていますが、「本願力を聞く」とき、真理そのものとしてのことばを聞いています。
 「本願力のいわれを聞く」とは『無量寿経』に説かれている本願生起の顛末を聞くことです。本願という真理はどのようなもので、どのようにしてこの世に現れるに至ったのかを聞くのです。では「本願力を聞く」とはどういうことか。言うまでもありません、南無阿弥陀仏の声を聞くことです。南無阿弥陀仏とは本願という真理がそのままことばになったもので、真理そのものとしてのことばです。南無阿弥陀仏は古いインドのことば(サンスクリットの音をそのまま漢字に置き換えたもの)ですので、僭越ながらこれをぼく流に現代日本語に翻訳しますと、「帰っておいで」となります。
 真理を伝えることば(本願のいわれ)と真理そのものとしてのことば(南無阿弥陀仏)について、龍樹の「指月の譬え」で考えてみましょう。
 龍樹は『大智度論』において「義によりて語によらざるべ」きことを説くなかで、この「指月の譬え」を持ち出します(親鸞はそれを「化身土巻」に引いています)。「指をもて月をおし」えても「指を看視して、しかも月をみざる」人がいるものだが、「なんぞ指をみてしかも月をみざる(どうして指だけをみて、肝心の月をみないのか)」と言うのです。「語は義の指」であり、「語は義にあらざる」のだと。この譬えで指(語)とされるのは真理を伝えることばで、月(義)が真理そのものです。人はとかく指をみて(真理を伝えることばを聞いて)、月をみたように(真理そのものを聞いたように)思ってしまうが、それはとんでもない勘違いであるということです。
 真理を伝えることばは、ぼくらがそれをゲットします。しかし真理そのものとしてのことばは、それがぼくらをゲットします(ぼくらはそれにゲットされます)。そして真理そのものとしてのことばにゲットされたぼくらは真理に染まってしまいます。南無阿弥陀仏(帰っておいで)ということばにゲットされたぼくらは南無阿弥陀仏に染まってしまいます。染香人(ぜんこうにん)ということばが出てきましたが、念仏のひとは南無阿弥陀仏に染まったひとです。

タグ:親鸞を読む
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