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本文9 [はじめての『尊号真像銘文』(その54)]

         第5回 遇うて空しく過ぐるものなし

(1)本文9

 婆藪般豆菩薩(ばそばんずぼさつ)『論(ろん)』曰(わつ)「世尊我一心(せそんがいっしん) 帰命尽十方(きみょうじんじゅっぽう) 無碍光如来(むげこうにょらい) 願生安楽国(がんしょうあんらくこく) 我依修多羅(がえしゅたら) 真実功徳相(しんじつくどくそう) 説願偈総持(せつがんげそうじ) 与仏教相応(よぶっきょうそうおう) 観彼世界相(かんぴせかいそう) 勝過三界道(しょうがさんがいどう) 究竟如虚空(くきょうにょこく) 広大無辺際(こうだいむへんざい)」と。
 又曰(またいわく)「観仏本願力(かんぶつほんがんりき) 遇無空過者(ぐむくかしゃ) 能令速満足(のうりょうそくまんぞく) 功徳大宝海(くどくだいほうかい)」
 
 「婆藪般豆菩薩論曰」といふは、「婆藪般豆」は天竺(てんじく、インド)のことばなり。晨旦(しんたん、中国)には天親菩薩と申す。また、いまはいはく、世親菩薩と申す。旧訳(くやく)には天親、新訳には世親菩薩と申す。「論曰」は、世親菩薩、弥陀の本願を釈しあらはしたまへる御ことを「論」といふなり。「曰」はこころをあらはすことばなり。この論をば『浄土論』といふ、また『往生論』といふなり。「世尊我一心」といふは、「世尊」は釈迦如来なり。「我」と申すは、世親菩薩のわがみとのたまへるなり。「一心」といふは、教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり。すなわちこれまことの信心なり(本文10に続く)。

 婆藪般豆菩薩の『浄土論』に曰く、「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せり。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」と。
 また曰く、「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」。
 
 「婆藪般豆菩薩論曰」の「婆藪般豆」はインドのことばで、中国では天親と言います。また、今は世親菩薩と言います。古い訳では天親、新しい訳では世親菩薩と言います。「論曰」の「論」とは、世親菩薩が弥陀の本願を注釈し著された書物を論と言います。「曰」とは、その内容をあらわすということです。この論を『浄土論』といい、また『往生論』と言います。「世尊、我一心に」の「世尊」とは釈迦如来のことです。「我」とは、世親菩薩が自分自身のことを指しておられるのです。「一心」とは、教主世尊の教えをいただくに、ふたごころなく、疑いないということです。すなわち、これがまことの信心です。

タグ:親鸞を読む
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