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願生安楽国 [はじめての『尊号真像銘文』(その61)]

(8)願生安楽国

 月愛三昧(がつあいざんまい)ということばがあります。釈迦が悩める阿闍世王のためにこの三昧に入られたと『涅槃経』に説かれています。月愛三昧とは何か。「たとえば月のひかりよく一切の優鉢羅華(うばちらけ、青蓮華のこと)をして開敷(かいふ)し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ」。「たとへば月のひかりよく一切のみちゆく人の心に歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく涅槃道を修習(しゅじゅう)せんものの心に歓喜を生ぜしむ」。
 このように無量のひかりである阿弥陀仏は「むこうから」やってきて、「おのづから」われらのこころに差し込み、朗らかな気持ちにしてくれるのです。
 さて「帰命尽十方無碍光如来(尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて)」のあと、「願生安楽国(安楽国に生ぜんと願ず)」とつづきますが、これについて親鸞は「世親菩薩、かの無碍光仏を称念し信じて安楽国にむまれむとねがひたまへるなり」と言います。これもまたサラリと読みすごしそうですが、このことばの裏に隠れている親鸞の真意を汲み取らなければなりません。われらが「帰命する(よりたのむ)」のは、それに先立ってむこうから「帰命せよ(よりたのめ)」という勅命があるからであるように、われらが「願生する(帰りたいと思う)」のも、それに先立ってむこうから「願生せよ(帰っておいで)」との勅命があるからということです。
 少し前のところで三心一心問答を話題にしました(3)。そこでは第18願の至心・信楽・欲生はみな如来から回施されたものであって、それを天親は一心と表明したということを述べただけですが、欲生についてもう少し細かくみてみましょう。親鸞はこう言っています、「つぎに欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふ勅命なり。…まことにこれ大小(大乗と小乗)凡聖(凡夫と聖人)定散(定善と散善)自力の回向にあらず。かるがゆへに不回向となづくるなり。…(如来)利他真実の欲生心をもて、諸有海に回施したまへり」と。六字釈のところで「帰命は本願招喚の勅命なり」とあったのとまったく同じく、欲生とは「如来、諸有の群生を招喚したまふ勅命なり」と言っているのです。
 われらが「帰りたい」と願うには違いありませんが、しかしそれはそれに先立つ「帰っておいで」の声に応答しているにすぎないということです。

タグ:親鸞を読む
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