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仏教と相応せり [はじめての『尊号真像銘文』(その63)]

(10)仏教と相応せり

 はじめの一文「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せり」は何を言おうとしているのかスッとは頭に入ってきませんが、親鸞はそれを大胆に読み解いていきます。親鸞の解説にしたがって現代語訳しますと、「わたしは浄土教典に説かれる南無阿弥陀仏のかたちから、弥陀の本願が何をわれらに呼びかけているか、どんな智恵があたえられるのかを明らかにして、それこそ釈迦がわれらに語り伝えようとしたことであることを示したいと思います」となります。
 親鸞は「真実功徳は誓願の尊号なり」といい、「本願のこころをあらはすことばを偈といふなり」といい、さらには「総持といふは智慧なり」というように、天親のことばを何の迷いもなく分かりやすく言いかえていきます。かくして天親が『浄土論』でしようとしたのは、無量寿経に説かれている本願名号の教えを明らかにすることであり、仏教とは要するに本願名号の教えであることを示すことである、と言うのです。
 ここで考えたいと思いますのは「我依修多羅(われ修多羅に依りて)」ということ、そして「与仏教相応(仏教と相応せり)」ということです。天親は自分独自の考えを述べようとしているのではなく、あくまでも『無量寿経』に依っているのであり、したがって釈迦の説いた教えを明らかにしようとしているということです(『浄土論』の正式名称は『無量寿経優婆提舎願生偈』で、「優婆提舎(うばだいしゃ)」とは経典の解説すなわち「論」ということです)。
 自分勝手な考えを述べるのではなく、釈迦の教え、弥陀の本願について述べるというのは当たり前といえば当たり前ですが、ここにはしかし意を潜めなければならないことがあります。ひと言でいいますと、真理はすでに語られているということです。この世に新しい真理などというものはなく、真理はすでに釈迦に語られているということ。さてしかし、こんなふうに言いますと、さまざまな不審がわきおこってくることでしょう。あまりに世の普通の見方と違うからです。

タグ:親鸞を読む
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