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こころもおよばれず、ことばもたへたり [はじめての『尊号真像銘文』(その65)]

(12)こころもおよばれず、ことばもたへたり

 次の文「観彼世界相勝過三界道 究竟如虚空広大無辺際(かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし)」から、いよいよ浄土と弥陀仏そして菩薩衆についての語りがはじまります。親鸞はその最初の語りについてこう解説してくれます、「かの安楽世界をみそなわすに、ほとりきわなきこと虚空のごとし、ひろくおほきなること虚空のごとしとたとへたるなり」と。
 さて、「かの世界の相を観ずるに」とありますことから、どうしても「この世界」とは別の「かの世界」のことについて語られていると思います。浄土はこの穢土とはまったく別のところにあるというのはもう当たり前のことと思われています。ですから、そこへ往く、すなわち往生するのはこの穢土からおさらばするとき、いのち終わるときであるのもまた当たり前となります。
 しかし、ここであらためて思い返したいのは、浄土についての真理は「こちらからゲットする真理」ではなく、「むこうからゲットされる真理」であるということです。浄土なんてほんとうにあるのか、あるとすればどこにあって、どんな世界なのかをこちらからゲットしようとしてもできるものではありません。そうではなく、あるとき浄土についての真理がむこうからやってきて、気がついたらそれにゲットされているのです。
 これは、気づいてみるともうすでに浄土のなかにいるということです。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。
 としますと、浄土はこの穢土とは別のところにあるのではない、ということになります。この穢土が穢土のままでそっくり浄土であるということです。これはしかしもう「こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)と言わなければなりません。でも、だからといってナンセンスということにはならないでしょう。われらの論理が届くのは「こちらからゲットする真理」までで、「むこうからゲットされる真理」には及ばないというだけのことです。
 それでも何とかして語ろうとしたらどうなるか。「ほとりきわなきこと虚空のごとし、ひろくおほきなること虚空のごとし」と言うしかありません。

タグ:親鸞を読む
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