SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その66) ブログトップ

本文12 [はじめての『尊号真像銘文』(その66)]

(13)本文12

 『浄土論』は『無量寿経』にもとづいて、浄土の相、弥陀仏の力、そして浄土の菩薩たちのはたらきについて詠っていきますが、そのなかで弥陀仏についての最後の一文「観仏本願力遇無空過者(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし) 能令速満足功徳大宝海(よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」の解説です。

 「観仏本願力遇無空過者」といふは、如来の本願力をみそなはすに、願力を信ずるひとは、むなしくここにとどまらずとなり。「能令速満足功徳大宝海」といふは、「能」はよしといふ、「令」はせしむといふ、「速」はすみやかに疾(と)しといふ。よく本願力を信楽する人は、すみやかに疾く功徳の大宝海を信ずる人のその身に満足せしむるなり。如来の功徳のきはなくひろくおほきにへだてなきことを、大海の水のへだてなくみちみてるがごとしとたとへたてまつるなり。

 「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし」とは、如来の本願力を考えますと、それを信じる人は、空しくここに留まることはない、ということです。「よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」の「能」は「よし」ということ、「令」は「せしめる」ということ、「速」は「すみやかに」「はやく」ということです。よく本願力を信じる人のその身に、すみやかに速く功徳の大宝海を満足させるということです。如来の功徳の際限なく広く大きく分け隔てがないことを、大海の水が隔てなく満ち満ちているようだとたとえられているのです。

 親鸞は『一念多念文意』でもこの文について詳しく解説してくれていますので、抄録しておきます。
「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。「遇」は、まうあふといふ。まうあふと申すは、本願力を信ずるなり。…むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。…「功徳」と申すは、名号なり。「大宝海」はよろづの善根功徳、満ちきはまるを、海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その66) ブログトップ