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すなはち懺悔するなり [はじめての『尊号真像銘文』(その72)]

(3)すなはち懺悔するなり

 善導については4つの文が取り上げられますが、最初は智栄という人(宋代の人、詳細不明)が善導を讃えて述べた文です。
 善導は『観経疏』において「南無阿弥陀仏」の六字について「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれ行なり。この義をもてのゆへに、かならず往生をう」と釈していますが(この文は次に取り上げられます)、智栄はこれを受けて「仏の六字を称せば、すなわち仏を嘆ずるなり。すなわち懺悔するなり。すなわち発願回向なり。一切善根浄土を荘厳するなり」と述べています。すぐ目に飛び込んでくるのが「すなはち懺悔するなり」の一言です。南無阿弥陀仏を称えることは「仏を嘆ずる」ことであると同時に「懺悔する」ことであると言うのです。
 智栄の頭に善導の「二種深信」があったのは疑いありません。「一には決定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をうと信ず」。前者を「機の深信」と言い、後者を「法の深信」と言いますが、智栄が「仏を嘆ずる(讃嘆する)」といっていることが「法の深信」にあたり、「懺悔する」といっていることが「機の深信」にあたります。南無阿弥陀仏と称えるのは、かならず救うと言ってくださる仏を「何とありがたいことよ」と讃えることであり、それは同時に「何と罪深い自分であることよ」と懺悔することであると言っているのです。
 善導浄土教の核心はこの二種深信にあると言っていいでしょう。善導はこれを言い残してくれただけで永遠に輝いています。法の深信は誰でも言うでしょう、弥陀の本願は一切の衆生をもれなく救ってくれる、と。しかし、一切の衆生が救われると信じるその裏に、こんな罪深い自分が救われるはずがないという思いが貼りついていることをはっきり言ってくれたのはただ善導だけです。智栄はそのことに注目して、ここで「仏の六字を称せば、すなわち仏を嘆ずるなり。すなわち懺悔するなり」と述べているのに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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