SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その75) ブログトップ

光に遇ってはじめて闇に気づく [はじめての『尊号真像銘文』(その75)]

(6)光に遇ってはじめて闇に気づく

 機の深信と法の深信は一枚の紙の表と裏の関係であり、一方がなければ他方もないということを考えているところです。これまで「機の深信がなければ法の深信もない」ということを確認してきましたが、次に「法の深信がなければ機の深信もない」と言えるのかどうかを検討したいと思います。つい今しがた、自分もまたあの極悪非道な犯人と同じいのちを生きる凡夫だと感じると言いました。たまたまあんなひどいことをする業縁がないだけで、いつなんどきもっとひどいことをしてしまうか分からない、と。しかし、こんなふうに思えるのは、実はすでに法の深信があるからではないかということを考えたいのです。
 前にも言いましたように、「ぼくはお世辞にも善人とは言えないが、でもあんなひどいことをする悪人と同じではない」と思うのが普通でしょう。悪人と言っても、そこにはやはりいろいろレベルがあると思う。自分は悪人だとしても、あんな極悪人と一緒にしてもらっては困ると思うものです。でも「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」という機の深信は、罪悪生死の凡夫であることにおいてみな同じであるという自覚です。そこには何の差もありません。そんなふうに思えるのはどうしてかと言いますと、弥陀の本願によってどんな極悪人も見捨てることなく救ってもらえるという思いがあるからに違いありません。
 光に遇ってはじめて闇に気づくということです。
 曠劫よりこのかたつねに闇の中にいて、まだ光に遇ったことがない人は、自分が闇の中にあると気づくことはありません。光の中にいると思わないのはもちろんですが、闇の中にいるとも思わない。この世界しか知らないのですから、これが世界であり、これ以外にはないと思っています。ところがあるとき本願の光に遇うことができますと、そのときはじめて「あゝ、ずっと闇の中にいたのか」と気づくのです。これが「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず」ることです。やはり「法の深信がなければ機の深信もない」と言わなければなりません。
 「機の深信がなければ法の深信もない」し、また「法の深信がなければ機の深信もない」ということは、機の深信と法の深信は別ものではないということです。かくして智栄とともに「仏の六字を称せば、すなわち仏を嘆ずるなり。すなわち懺悔するなり」と言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その75) ブログトップ