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ひとつのいのちで繋がっている [はじめての『尊号真像銘文』(その74)]

(5)ひとつのいのちで繋がっている

 「今、いのちがあなたを生きている」というのは東本願寺が掲げている標語ですが、このことばの射程は長い。「あなたがいのちを生きている」のでしたら、それぞれの人がそれぞれのいのちを生きているということですが、「いのちがあなたを生きている」としますと、ひとつのいのちがそれぞれの人を生きているのですから、みなひとつに繋がっていることになります。「みなもて世々生々の父母兄弟」です。そしてここから弥陀の本願は一人の例外もなく一切の衆生を救ってくれるという感覚が生まれてきます。
 しかし、みなひとつのいのちとして繋がりあっているという感覚の源はどこにあるのでしょう。この感覚は善の意識ではなく悪の意識から生まれてきます。「ぼくらは善人だ」という連帯意識は、かならず「やつらは悪人だ」という敵対意識をともなっています。そこには「みなひとつのいのち」という思いはありません。しかし「ぼくらは悪人だ」という感覚には敵対意識はありません。みな煩悩具足の凡夫として「世々生々の父母兄弟」と感じています。
 悪人ということばに引っかかりがあるかもしれません。「ぼくはそれほど善人ではないかもしれないが、でも悪人ではないだろう」と思うのが普通でしょう。そのとき、たとえばベトナム国籍の女の子を非道に殺した犯人が悪人として頭に浮んでいることでしょう。そして「ぼくはあんなひどいことをする悪人ではない」と思う。しかし親鸞は言います、「わがこころのよくてころさぬにはあらず」と(『歎異抄』第13章)。いまたまたま殺すべき業縁がないから殺さないだけであって、「害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」と言うのです。
 どんなに極悪非道な犯人も例外とすることなく、一切衆生をもれなく救ってくれるのが弥陀の本願であると信じることができるのは、自分もまた極悪非道な犯人とひとつのいのちの煩悩具足の凡夫であると感じるからです。あの犯人に極悪非道な行いをなさしめた我執は自分のなかにも紛れもなくあると思うからです。かくして機の深信があってはじめて法の深信があるということになります。

タグ:親鸞を読む
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