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南無阿弥陀仏とは [はじめての『尊号真像銘文』(その77)]

(8)南無阿弥陀仏とは

 ひとつ前の智栄の文に関連してこの六字釈を取り上げましたが、あらためて善導はこの文で何を言わんとし、親鸞はそこに何を読みとったかを考えたいと思います。煩わしいようですが、善導が言っていることを正しく理解するために、この一文がどのようなコンテキストにおいて述べられているかを見ておきましょう。
 この文は『観経疏』の「玄義分」(『観経疏』は「玄義分」、「序分義」、「定善義」、「散善義」の4巻から成り立っていて、「玄義分」はその総論にあたるところです)にあり、善導がそこで『観経』についての独自の解釈(古今楷定―ここんかいじょう―とよばれます、古今の解釈の新しい基準を定めるという意味です)を示すなかに出てきます。当時の通説として『観経』は聖人のために観仏の教えを説くものとされていたのですが、善導はそれを凡夫にために念仏往生を説くのであるとひっくり返すのですが、それを言うためには摂論家(しょうろんか、無着の『摂大乗論』に依る学派)の説を批判しなければなりませんでした。
 摂論家がいうのは、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけでは、願だけで行がないから(唯願無行)、往生できるはずがないということです。『観経』に、十悪・五逆の悪人もいのちが終わるときに臨んでただ南無阿弥陀仏と称えるだけで往生できると説いてあるのは確かだが、あれは方便の説であって、その文字通りに受けとってはならないと言います。それに対する反論として述べたのがこの文で、「南無阿弥陀仏」には願だけでなく行も具わっているから(願行具足)、念仏するだけでかならず往生できるのだと言っているのです。「南無」は帰命という意味だから願であるが、「阿弥陀仏」は行であり、かくして南無阿弥陀仏に願行が具足していると。
 さてしかし阿弥陀仏が行であるとはどういうことか。善導はそれ以上のことを何も言ってくれませんが、親鸞がそれに代わって答えてくれます。
 「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり」という謎のことばを解き明かすためには、その前の「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり」とはどういうことかにさかのぼって考えなければなりません。そこで親鸞は、まず「帰命」についてこうかみ砕いてくれます、「帰命はすなわち釈迦弥陀二尊の勅命にしたがひて、めしにかなふとまふすことばなり」と。

タグ:親鸞を読む
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