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プールヴァ・プラニダーナ [はじめての『尊号真像銘文』(その78)]

(9)プールヴァ・プラニダーナ

 帰命といいますと、言うまでもなく、われらが弥陀に帰命するということですが、親鸞はわれらが帰命するのは、それに先立って「釈迦弥陀二尊の勅命」があるからこそである、というところに目を向けるのです。帰命せよという勅命が下っているから、その命に応じて帰命しているのだということ。そう言われてみると当然のように思えますが、しかしわれらはともすると、こちらが帰命することが先にあり、それに対して弥陀からの応答があるというように捉えてしまいます。
 摂論家の人たちが、ただ南無阿弥陀仏と称えるというのは、願うばかりで行がないではないか、それでは往生できるはずがない、と言うのも、まずこちらからいろいろと働きかけるからこそ、それに応えてむこうからご褒美が与えられるのだという発想です。しかし親鸞は、われらが何かをほんとうに願うことができるのは、それに先立って願うようにはからわれているからというところに注目するのです。われらが真剣に願うのは、そのように願われているからだということです。
 「即是帰命」に続いて「亦是発願回向之義(またこれ発願回向の義なり)」について、「二尊のめしにしたがふて安楽浄土にむまれむとねがふこころなり」と述べているのはまさにそのことです。発願というのは、まぎれもなくわれらが「安楽浄土にむまれむとねがふ」ことですが、しかしそれに先立って「二尊のめし(召し)」があるということです。二尊が往生を願ってくれているから、われらが「安楽浄土にむまれむとねがふ」のだという、この順序がすべての基本軸です。
 本願は「プールヴァ・プラニダーナ」、すなわち「前の願い」という意味です。直接的には、弥陀が弥陀になる「前」、つまり因位の法蔵菩薩の願いということですが、それを、われらが願うより「前」に、弥陀が願ってくれているというように受け取るべきでしょう。われらが「生きんかな」と願うことができるのは、それより前に、むこうから「生かしめんかな」と願ってもらっているからだということです。ここに本願のほんとうの意味があるに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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