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阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり [はじめての『尊号真像銘文』(その79)]

(10)阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり

 ここまできまして、善導の「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり」ということばの真意を汲み取ることができます。親鸞はこう言います、「即是其行は、これすなわち法蔵菩薩の選択本願也としるべしとなり」と。これまたあまりに短く約められていますから、すぐには何を言っているのか読み取れませんが、これまで見てきたことを頭においてよくよくかみしめますと、親鸞が言いたいこと、ひいては善導の謎のことばの意味することも浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 「南無」はわれらが「生きんかな」と発願することに違いないが、そのように願うことができるのは、「阿弥陀仏」の「生かしめんかな」という「前の願い」、すなわち本願があるからであるということ、これです。われらの「生きんかな」の願いは、ただ単にわれらが勝手にそう願っているのではなく、その背後に阿弥陀仏の本願があるのであり、それが「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり」ということばの真意だということです。阿弥陀仏の本願が行であるということ、この深い意味を汲み取らなければなりません。
 行といえば、もうわれらがするものという思い込みがあります。われら自身がしてこその行であって、それ以外の行などどう考えればいいのかと。そこからしますと、弥陀の本願が行であるなどと言われると戸惑いを覚えるのです。浄土の行といえば南無阿弥陀仏を称えることで、これは他ならぬわれらがすることではないかと。さてしかしここで思いを致さなければならないのは、われらが南無阿弥陀仏を称えるのは、南無阿弥陀仏の歴史の中においてであるということです。
 われらが南無阿弥陀仏を称えるよりはるかむかしから南無阿弥陀仏が称えつづけられてきたのであり、われらが南無阿弥陀仏を称えても、南無阿弥陀仏の歴史に何ひとつつけ加えるわけではありません。われらは南無阿弥陀仏の歴史に参加するだけであり、そのことにより大事なものを与えてもらうのです。われらが南無阿弥陀仏の歴史に何かをつけ加えるのではありません、南無阿弥陀仏の歴史がわれらに何かをつけ加えてくれるのです。

タグ:親鸞を読む
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