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わが名字を称すること、下十声に至るまで [はじめての『尊号真像銘文』(その83)]

(2)わが名字を称すること、下十声に至るまで

 善導についての銘文の三つ目で『観念法門(かんねんぼうもん)』の文です。ひとつ前の「言南無者云々」は『観経疏』でしたが、善導にはその他に『往生礼讃』、『般舟讃(はんじゅさん)』、『法事讃』、そしてこの『観念法門』の著作があります。『観念法門』のメインは念仏によって得られる五つの利益(五種増上縁)を説くところにありますが、五種増上縁とは滅罪増上縁、護念増上縁、見仏増上縁、摂生(せっしょう)増上縁、証生(しょうしょう)増上縁のことです。そしてこの文は摂生増上縁を説く中の冒頭にきます。摂生増上縁の意味は、親鸞が「摂生は、十方衆生を誓願におさめとらせたまふとまふすこころ也」と解説してくれていますように、念仏することで弥陀の光明に摂取され捨てられないということです。
 この摂生の利益があることを示すために、経典から要文が引かれるそのはじめに第18願が取り上げられるのです。ただここに上げられているのは第18願の願文そのものではなく、それを善導流に読んだものです。「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生まれずば、正覚を取らじ」と。比較のために第18願文そのものを上げておきましょう。「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」。
 一読して気がつきますのは、願文にある「心をいたし信楽して」が略され、「乃至十念せん」が「わが名字を称すること、下十声に至るまで」とより丁寧に具体的に言われているということです。善導の眼が称名念仏に向いていることが明らかで、これを「至心信楽の願」と呼んだ親鸞とのコントラストがくっきりします。第18願は伝統的に「念仏往生の願」とされ、親鸞もその伝統を大事にしていますが、しかし親鸞の眼が「至心信楽」に向いていることは隠しようがありません。「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(「信巻」)ということばは、親鸞において念仏よりも信心にウエイトがかかっていることをはっきり示しています。

タグ:親鸞を読む
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