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乗はのるべしといふ、また智なり [はじめての『尊号真像銘文』(その84)]

(3)乗はのるべしといふ。また智なり

 さて親鸞が解説している文をみますと、すでに親鸞は第18願の願文について詳しく注釈していますから(本文1と2)、目新しいことはそれほどありません。親鸞らしいところとしましては、「願生我国」を「安楽浄刹にむまれむとねがへと也」というように受けとめていることが上げられます。「われらが往生を願う」よりも前に、如来がわれらに「往生を願え」と命じているということです。われらが往生を願うに違いないのですが、それができるのも、それに先立って如来がわれらの往生を願ってくれているからということです。これもしかしすでにふれました。
 ただ一カ所、人を「えっ」と驚かせるところがあります。「乗我願力といふは、乗はのるべしといふ。また智なり。智といふは、願力にのせたまふとしるべしとなり」というところです。「乗るべし」と言った後、それに「また智なり」と重ねられることに戸惑ってしまいます。親鸞はときどきこのような思いがけない飛躍をして、人を考え込ませるところがありますが、そこがまた類いまれな魅力とも言えます。親鸞の誘いにのってこの飛躍で何を言おうとしているのかを考えてみたいと思います。
 乗と智とはまったく関係がありません。どれほど辞書をひっくり返しても、乗に智の意味は隠されていません。問題は「乗るべし」の「べし」でしょう。そのなかに「しる」ということを読み込んでいると思われます。「乗るべし」というのは、もちろん弥陀がわれらにそう言っているということです。弥陀が「ここに本願力という何ものにも代えがたい乗り物があるから乗りなさい」と勧めているということで、先の「願生」を「安楽浄刹にむまれむとねがへ」と読むのと同じ趣旨です。
 さて、弥陀がわれらに「乗るべし」と勧めているのですが、われらがそのことに気づかないと何ともなりません。そこで「また智なり」とくるのではないでしょうか。そして「智といふは、願力にのせたまふとしるべしとなり」と言っているのでしょう。「乗るべし」は、おのづから「しるべし」を伴うということです。

タグ:親鸞を読む
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