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知と智 [はじめての『尊号真像銘文』(その85)]

(4)知と智

 ここで親鸞は「知」とは言わず「智」という文字を使います。今日では「知」と「智」ははっきり区別されませんが、もともと明確に使い分けられていました。何かを「しる」というときは「知る」と言い(今日でも「智る」とは言いません)、それは「占有する」、「統治する」という意味があり(「知行」や「知事」の「知」はその意味です)、それとともに「了解する」、「理解する」という意味があります。一方、「智」は六波羅蜜の中心を「智慧」とするように(今日でもこれを「知恵」と表記することはありません)、「知」とはまったく異なります。仏教ではその違いを「分別知」と「無分別智」と表現します。主体と客体が分離しているのが分別知で、主体と客体が分離していないのが無分別智というように。
 「知る」のもとの意味に「占有する」や「統治する」があることから明らかなように、「知る」とは何かを「ゲットする」ことです。何かよく分からないものがあるとき、こちらから出かけていってそれが何であるかをゲットする(把握する)、そして知る主体は知られる客体を「わがもの」として支配することになる、これが「知る」ことです(知的所有権ということばは、それを何よりもはっきり示してくれます)。一方、「智」はといいますと、むこうから何かがやってきて、それに「ゲットされる」ことです。気がついたらゲットされていた、これが「智」です。
 さて本題にもどりまして、弥陀がわれらに「乗るべし」と招喚してくれても、われらがそれに気づかなければ何ともならないということでした。
 この気づくというのが「また智なり」と言われていることの正体です。この弥陀の招喚に気づくという智は、われらが弥陀の招喚をゲットするのではなく、弥陀の招喚がわれらをゲットするということです。もしわれらが弥陀の招喚をゲットするのでしたら、イニシャティブはわれらにあり、ゲットした上で、さてその招喚に応じるかどうかをわれらが決めることになります。そして「応じよう」となってはじめて弥陀の願力に乗じる運びとなります。しかし弥陀の招喚にゲットされるということは、そのときにはもうすでに願力に乗じているということです。もうすでに願力に乗っていることに気づくのです。正定聚不退とはこのことです。

タグ:親鸞を読む
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