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本文17 [はじめての『尊号真像銘文』(その86)]

(5)本文17

 「此即是願往生行人(しそくぜがんおうじょうぎょうにん)」といふは、これすなわち往生を願ふ人といふ。「命欲終時(みょうよくじゅじ)」といふは、いのちおはらんとせんときといふ。「願力摂得往生(がんりきしょうとくおうじょう)」といふは、大願業力摂取して往生を得しむといへるこころなり。すでに尋常のとき信楽をえたる人といふなり。臨終のときはじめて信楽決定して摂取にあづかるものにはあらず。ひごろ、かの心光に摂護(しょうご)せられまゐらせたるゆゑに、金剛心をえたる人は、正定聚に住するゆゑに、臨終のときにあらず、かねて尋常のときよりつねに摂護して捨てたまはざれば、摂得往生と申すなり。このゆゑに「摂生(せっしょう)増上縁」となづくるなり。またまことに尋常のときより信なからん人は、ひごろの称念の功によりて、最後臨終のとき、はじめて善知識のすすめにあうて信心をえんとき、願力摂して往生を得るものもあるべしとなり。臨終の来迎をまつものは、いまだ信心をえぬものなれば、臨終をこころにかけてなげくなり。

 「これすなはちこれ往生を願ずる行人」とは、すなわち往生を願う人ということです。「命終らんとする時」とは、いのちが終ろうとする時ということです。「願力摂して往生を得しむ」とは、大願業力がその人を摂取して往生させてくださるという意味です。すでに平生に信心を得た人ということです。臨終のときにはじめて信心が定まって摂取にあずかる人のことではありません。日頃から弥陀の心光に摂取され護られて金剛のような信心を得た人は、正定聚の位についていますから、臨終の時ではなく平生の時からいつも摂取され護られているのです。だから摂得往生と言うのです。ですから「摂生増上縁」と言うのです。平生の時に信心のない人は、日ごろの念仏の功あって、いのち終わる臨終の時に、はじめて善知識の勧めで信心を得て、願力により摂取され往生できることもあるでしょう。臨終の来迎を待っている人は、まだ信心を得ていませんから、臨終に往生できるのだろうかと気にして嘆くのです。

タグ:親鸞を読む
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