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命終らんとする時 [はじめての『尊号真像銘文』(その87)]

(6)命終らんとする時

 善導は第18願を(自分流の読みで)出したあと、その趣旨をこう領解します、「これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ」と。「命終らんとする時」というところに善導流浄土教の本質が顔を出していて、親鸞の領解との違いがくっきりと現れています。善導は摂得往生は臨終のときであるとしますが(これは道綽から受け継いだものです)、親鸞ははっきり尋常のときとします、「金剛心をえたる人は、正定聚に住するゆへに、臨終のときにあらず、かねて尋常のときよりつねに摂護してすてたまはざれば、摂得往生とまふす」と。
 ここに「往生」の受けとめかたの違いが明らかに出ています(親鸞はそんな違いなどさほど気にすることなく、どんどん自分流の読みをしていくという感じですが)。その違いをひと言でいいますと、善導は第18願を『観無量寿経』を下敷きにして読んでいるのに対して、親鸞は『観無量寿経』は方便の経であり、『大無量寿経』が真実の経であるとする立場にあるということです。道綽・善導の浄土教は『観経』中心であるのに対して、親鸞は『大経』中心であるということがことのいちばんの底にあります。
 少し前のところで(2)、善導が第18願を「わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで」と言い換えていることにふれましたが、そこにもすでに『観経』が下敷きになっていることがあらわれています。
 『観経』の末尾、いわゆる「下下品」にこうあります、「この人(五逆・十悪の下品下生の人)、(臨終の)苦に逼(せま)られて、仏を念ずるに遑(いとま)あらず。善友、告げていう、『汝もし念ずることあたわざれば、まさに無量寿仏を称うべし』と。かくのごとく、至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称えしむ。仏の名を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き、命終る時、金蓮華の、なお日輪のごとくにして、その人の前に住するを見ん。一念の頃(あいだ)のごとくに、すなわち極楽世界に往生することをえ、云々」と。
 善導は道綽にならい、この文を下敷きにして第18願を読んでいるのです。

タグ:親鸞を読む
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