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かねて尋常のときより [はじめての『尊号真像銘文』(その88)]

(7)かねて尋常のときより

 『観経』「下下品」を下敷きとして第18願を読むとどうなるかといいますと、まず「至心信楽」が後ろに引っ込み、それに代わって「仏の名を称える」ことが前に出てきます。道綽は第18願を「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずば正覚をとらじ」と読んでいますが(『安楽集』)、この文章にそのことがこの上なくはっきりあらわれています。ただ「十念相続してわが名字を称せ」ばそれだけで往生できるのだということ、善導はこれを継承しているのです。
 そして何よりも、『観経』をベースにしますと、往生するのは「命終らんとする時」であることになります。
 往生が臨終のときであるのは当たり前じゃないか、それ以外のいつだというのか、と言いたそうな顔がちらほら見えます。何を隠そう、ぼくも長いあいだそう思ってきました。ついでですので告白しますと、長いあいだ思い込んできたことがもうひとつあります。それは南無阿弥陀仏はわれらが称えるものであるということです。これも当たり前だのクラッカーで(などと言っても若い人には通じないでしょうが)、われらが称えなくてだれが称えるのかと思っていました。ところがそうではなく、南無阿弥陀仏はこちらから称えるより前に、むこうから聞こえてくるのだということに気づかされたのはそれほど前のことではありません。
 道綽・善導浄土教から、ぼくらはこれらの「浄土教の常識」を植えつけられたのですが、それをひっくり返したのが親鸞浄土教です。
 道綽・善導によって往生とは臨終のときに浄土に往くことであるとされて以来、この往生観が世を覆うようになり、もうこれ以外の往生は考えられなくなりました。ところが親鸞はとりわけ第18願成就文の「かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ(即得往生)、不退転に住す(住不退転)」を根拠として、信心のそのときに往生するという往生観を打ち出したのです。さてこの往生観のコペルニクス的転回にはどんな意味があるのか、これを考えておきたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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