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「これから」と「いま」 [はじめての『尊号真像銘文』(その89)]

(8)「これから」と「いま」

 親鸞にとって往生とは正定聚不退(かならず仏になることが定まっており、もうどんなことがあってもそこから転落することがない位)になることであって、いま生きている娑婆とは別の世界へ往くことではありません。この身は紛れもなく娑婆にありながら、「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のです。本願名号に遇うことができたときに「その心すでにつねに浄土に居す」、これが親鸞の往生です。
 「死んでから浄土へ往く」往生と、「生きながら浄土に居す」往生とでは、何が違うのでしょう。
 前者の往生は仏になることに他ならず、もはや煩悩から解脱しています。往生イコール成仏です。ところが後者の往生は煩悩具足のままです。「煩悩を断ぜずして涅槃をう」(「正信偈」)るのです。前者の「煩悩のなくなった往生」においては、その前と後とで世界が一変しますが(だからこそ往生は死後となるのですが)、後者の「煩悩をもったままの往生」においては、世界そのものに何の変化もなく依然として娑婆のままです。
 さて「死んでから浄土へ往く」としても、信心のとき命終わったのち必ず往生することが定まるわけですから、それで安心して生きていけるのではないでしょうか。その点で「生きながら浄土に居す」のと何が違うのかと言われるかもしれません。往生の定義の違いにすぎないのではないかと。そうではありません、信心をえたのちの正定聚不退のありようが大きく違ってくるのです。
 正定聚を「必ず往生することが定まった境位」とするか、「すでに往生がはじまった境位」とするかで、そのありようが大きく異なります。後者はもうすでに往生の旅がはじまっていますが、前者はすでに定まっているが、いまだはじまっていないという宙ぶらりんの状態です。以前これを「待機時間」と表現しましたが(第1回、12)、旅のはじまりを待機しているのと、すでに旅の中にいるのとではまったく違うでしょう。
 旅のはじまりを待っている人の眼はひたすら「これから」に向いていて「いま」が空虚ですが、すでに旅の中にいる人は「いま」を生きています。

タグ:親鸞を読む
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