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本文18 [はじめての『尊号真像銘文』(その90)]

(9)本文18

 又曰「言護念増上縁者  乃至 但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨総不論照摂 余雑業行者 此亦是 現生護念増上縁」

 また曰く、「護念増上縁といふは、乃至 ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり」。

 「言護念増上縁者(ごんごねんぞうじょうえんしゃ)」といふは、まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふと申すことばなり。「但有専念阿弥陀仏衆生(たんうせんねんあみだぶつしゅじょう)」といふは、ひとすぢにふたごころなく弥陀仏を念じたてまつると申すなり。「彼仏心光常照是人(ひぶつしんこうじょうしょうぜにん)」といふは、「彼」はかのといふ。「仏心光」は無碍光仏の御こころと申すなり。「常照」はつねにてらすと申す。つねにといふは、ときをきらはず、日をへだてず、ところをわかず、まことの信心ある人をばつねにてらしたまふとなり。てらすといふは、かの仏心のをさめとりたまふとなり。「仏心光」は、すなわち阿弥陀仏の御こころにをさめたまふとしるべし。「是人」は信心をえたる人なり。つねにまもりたまふと申すは、天魔波旬(てんまはじゅん)にやぶられず、悪鬼悪神にみだられず、摂護不捨(しょうごふしゃ)したまふゆゑなり。「摂護不捨」といふは、をさめまもりてすてずとなり。(本文19に続く)

 「護念増上縁といふは」とは、真実の信心を得た人を、この世で常に護ってくださるということです。「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて」とは、ひとすじにふたごころなく阿弥陀仏を念じたてまつるということです。「かの仏心の光、つねにこの人を照らして」の「彼」とは「かの」ということです。仏心の光とは、無碍光仏のお心ということです。常照とは「常に照らす」ということです。「常に」とは、日時を選ばず、所を選ばず、真実の信心のある人をいつも照らしてくださるということです。「照らす」とは、かの仏の心におさめとってくださるということです。仏心の光に照らされるとは、阿弥陀仏のお心におさめとってくださるとお考えください。「この人」とは信心を得た人です。つねに護ってくださるというのは、天魔や悪魔に信心が破られることなく、悪鬼や悪神に乱されることなく、おさめとって捨てられることがないからです。「摂護して捨てたまはず」とは、おさめとってお護りくださり捨てられないということです。

タグ:親鸞を読む
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