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修証これ一等なり [はじめての『尊号真像銘文』(その92)]

(11)修証これ一等なり

 ふと思い立って『スッタニパータ』を読み直しています。仏教の原風景にあらためてふれてみたいと思ったのです。
 そこには目の前を歩きながら、人々に語りかけるブッダの姿が生き生きと描かれています。たとえば、その冒頭にはこうあります、「蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」。全編にわたってブッダはこのように「生死いづべき道」を説いていくのですが、読みながらときどき思い惑うのです、これは「生死いづるための道」を説いているのか、それとも「生死をいでたあとの風光」を語っているのか、と。
 いまの文の「怒りが起ったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る」でいいますと、これは「この世とかの世とをともに捨て去る(生死をいづる)ためには怒りが起るのを制しなければならない」ということか、それとも「この世とかの世とをともに捨て去った(生死をいでた)修行者は怒りが起るのを制している」という意味かと迷うのです。ブッダはすでに生死をいでた人ですから、彼自身のことを語っているとしますと、後者の意味になりますし、生死をいでようとしている修行者に向かって説いているとしますと、前者の意味になります。
 さて、こんな迷いが生まれてくるもとには、修行(行)と悟り(証)をはっきり分けようとする習いがあると思われます。修行があって悟りがある、だから修行の中でのことか、それとも悟りの後のことかはまったく別の話だ、とする思い込みです。
 道元はこうした思い込みに痛撃を食らわせます、「修証(しゅしょう)これ一等(いっとう、ひとつ)なり」と。道元は「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものには、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめん人は、坐禅なにのまつところかあらん(坐禅は悟りをえるためだから、すでに悟りをえた人はもう坐禅の必要はないのではないか)」と自ら問い、それにこう答えます、「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。…すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」(『正法眼蔵』「弁道話」)と。
 修行は悟りのための手段だから、悟りに至ればもう修行は必要なくなる、と考えるのが普通でしょう。しかしそれは凡夫の浅はかさであり、修行のなかにすでに悟りあり、そして悟りのなかに修行があるから、修行にも悟りにも「はじめなく」「きはもない」というのです。

タグ:親鸞を読む
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