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本文19 [はじめての『尊号真像銘文』(その94)]

(13)本文19

 「総不論照摂余雑業行者(そうふろんしょうしょうよぞうごうぎょうじゃ)」といふは、「総」はすべてといふ。みなといふ。雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまはずとなり。てらしまもりたまはずと申すは、摂取不捨の利益にあづからずとなり。本願の行者にあらざるゆゑなりとしるべし。しかれば、摂護不捨と釈したまはず。「現生護念増上縁(げんしょうごねんぞうじょうえん)」といふは、この世にてまことの信ある人をまもりたまふと申すみことなり。「増上縁」はすぐれたる強縁となり。

 「すべて余の雑業の行者を照らし摂(おさ)むと論ぜず」の「総」はすべてということ、みなということです。雑行雑修の人は、すべてみな、照らし、おさめとり、護ってくださることはないということです。照らし、護ってくださらないということは、摂取不捨の利益に与らせてもらえないということです。それは、雑行雑修の人は本願の行者ではないからです。ですから摂取不捨されるとは言われないのです。「現生護念増上縁」とは、この世で真実の信心のある人を護ってくださるというおことばです。「増上縁」とは、優れた強い縁ということです。

 善導は『観経』「真身観」の「(弥陀の)光明は十方世界をあまねく照らし、念仏衆生を摂取して捨てたまわず」の文を、その意をとって「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず」というかたちで出した後、念を入れるように重ねて「すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず」と述べます。それを親鸞が解説してくれているのです。

タグ:親鸞を読む
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