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排他的な匂い [はじめての『尊号真像銘文』(その95)]

(14)排他的な匂い

 この善導の文を読みますと、すごく排他的な匂いがしてこないでしょうか。『観経』の文そのものは、それほど排他性を感じませんが、善導は前半の「(弥陀の)光明は十方世界をあまねく照らし」よりも、後半の「念仏衆生を摂取して捨てたまわず」に力点を置いて読んでいることが分かります。しかもその「念仏衆生を」の箇所を「〈ただ〉阿弥陀仏を専念する衆生〈のみ〉ありて」と読み、さらには「すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず」と念を入れるのです。
 「(弥陀の)光明は十方世界をあまねく照らし」からは、弥陀のひかりは分け隔てなくすべての衆生に降り注いでいるというイメージが広がりますが、それが「〈ただ〉阿弥陀仏を専念する衆生〈のみ〉ありて」となりますと、弥陀のひかりは念仏する衆生を選別して、その人をめざして照らすという印象になります。しかも「すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず」となりますと、弥陀のひかりは、太陽のひかりのようではなく、特定の人にだけひかりを当てるスポットライトのようなイメージです。
 親鸞はそのことをさほど意に介さないかのように、「雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまはずとなり」と述べ、なぜそのような人は「摂取不捨の利益にあづから」ないかというと、「本願の行者にあらざるゆへなり」と解説します。このことばも「本願の行者ではありませんから摂取不捨の利益には与れません」と冷たく門戸を閉ざすようなニュアンスです。善導の文を忠実に解説すればそうなるのは確かですが、しかしこれでは親鸞浄土教らしからぬと言わざるをえません。
 親鸞浄土教の真面目は弥陀の光明も名号も生きとし生けるものみなに廻向されているという他力思想にあります。本願他力に一切の分け隔てはありません。誤解を恐れずに大胆に言ってしまえば、一切衆生はみなすでに弥陀の本願により救われているのです。ただそのことに気づいているかどうか。気づいた人はそのときすでに正定聚としての旅のなかにいます。しかし気づいていない人は弥陀の光明にも名号にも縁がありません。「摂取不捨の利益にあづからず」とはそういう意味にすぎないのです。

タグ:親鸞を読む
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