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本文21 [はじめての『尊号真像銘文』(その99)]

(2)本文21

首楞厳院源信和尚の銘文
 「我亦在彼 摂取之中 煩悩障眼 雖不能見 大悲無倦 常照我身」

 「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」

 「我亦在彼摂取之中(がやくざいひせっしゅしちゅう)」といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。「煩悩障眼(ぼんのうしょうげん)」といふは、われら煩悩にまなこさへらるとなり。「雖不能見(すいふのうけん)」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといへどもといふなり。「大悲無倦(だいひむけん)」といふは、大慈大悲の御めぐみ、ものうきことましまさずと申すなり。「常照我身(じょうしょうがしん)」といふは、「常」はつねといふ、「照」はてらしたまふといふ。無碍の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり。つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。「我身」は、わが身を大慈大悲ものうきことなくして、つねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり。「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。

 「われまたかの摂取のなかにあれども」とは、わたしもまた弥陀の摂取の中にあると言われているのです。「煩悩、眼を障へて」とは、われらは煩悩によって眼がさえぎられているということです。「見たてまつるあたはずといへども」とは、われらの煩悩の眼では仏を見たてまつることはできないけれども、ということです。「大悲、倦きことなく」とは、弥陀の大慈大悲のお恵みはうまずたゆまずわれらの上にあるということです。「つねにわが身を照らしたまふ」とは、「常」はつねということ、「照」はてらしてくださるということです。無碍の光明が信心の人を常に照らして下さるということです。常に照らすということは、常にお護りくださるということです。「我身」とは、このわが身を弥陀の大慈大悲はうまずたゆまず常に護って下さると思いなさいということです。摂取不捨のお恵みのこころをこのように表されているのです。『観無量寿経』の「念仏の衆生を摂取して捨てず」のこころをこのように注釈してくださっているのです。

 源信『往生要集』の有名な一節です。親鸞はこの一文がお気に入りで、源信とくれば必ずと言っていいほど引き合いに出しています。

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