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証明するとは [はじめての『尊号真像銘文』(その100)]

(3)証明するとは

 「われ」は「見たてまつるあたはず」、but、「大悲」は「つねにわが身を照らしたまふ」という対比に注目したいと思います。こちらから見ることはできないが、むこうから照らされ見守られているということ。「こちらから見ることができない」とは「証明できない」ということに他なりませんから、証明することはできないが間違いなく弥陀のひかりに照らされ見守られていると言っているのです。
 この「証明する」ということについて思いを巡らせてみましょう。
 ぼくらは何かを真であると主張するときにはそれを証明しなければならないと思います。証明できないなら主張したことにならないと。誰かに何かを真であると主張するということは、自分には明らかでも、他の人には必ずしもそうではないからです。みんなが当然だと思っていることをわざわざ主張することはありません。で、他の人にとって当然ではないことを真であると主張するためには、その証拠を出すことが求められます。かくして証明という手続きが是非とも必要になってくるわけです。
 このように証明とは自分だけが真であると思っている(主観的に真である)のではなく、みんなにとって真である(客観的に真である)ことを言う手続きです。あることがらが、それを主張している自分(がどう思うか)とは関係なく真であることを言う手続きといってもいい。およそ真理とは客観的に真であるものを言いますから、それに証明が必要であるのは言うまでもないことです。さてしかしです、そうではない真理もあるとしたらどうでしょう。客観的であることがいのちである真理ではなく、主観的であることがいのちであるような真理があるとしたら。
 そのような真理があることをはっきり言ってくれたのはキルケゴールで、彼はこう言いました、「主体性が真理である」と。キルケゴールはこのひと言で永遠に生きているといっていいと思います。彼が「主体性」ということばに込めたのは、「わたしがそれによって生き、それによって死ぬことができるような真理」のことです。「このわたし」にとって真理であることがすべてで、たとえ他のすべての人にとって真理でなくても一向にかまわないということ。

タグ:親鸞を読む
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